Give and it shall Stick!

このページは、私が日本語ミニストリーを行っているニューヨークのゴスペル教会「ベッセル・ゴスペル・アセンブリー教会」の礼拝メッセージを元に書かれているものです。聖書は今やクリスチャンのものだけではありません。なぜなら、みなさんのビジネスや生活のヒントになるメッセージがいっぱい詰まっているからです!人生のマニュアル本として、みなさんと一緒に学び、より心豊かな人生をおくりたく思います!

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unity-hands            (画像:losingmyreliginity.comより)

 

ベッセルゴスペルアセンブリー教会は2012年に南アフリカでも教会を開きました。ブラウン牧師はアフリカを訪問し、7月4日に帰国。翌日には通常どおり礼拝を行うというハードスケジュールでした。礼拝にはアフリカンの衣装で登場されました。本日のメッセージは「神の傍を離れるな」です。

初めにブラウン牧師は旧約聖書Psalm(詩編)133を読みました。詩編はいつも触れているように「詩」が収められているポエム集です。ユダヤではこの詩は多くの人に愛されているそうで「ヒネー・マー・トーブ」という楽曲名がつけられ、フォークダンスのようなダンスを踊りながら歌うのだそうです。参考動画はこちら

133:1見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。
133:2それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。
133:3またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。

Worship-together「ここに出てくる兄弟とは、血のつながりのある兄弟だけを指しているのではありません。人類が共に祈りのある生活をできることが、どれだけ幸せなことかが歌われています。幸せの度合いを示す例のひとつとして2節ではアロンのことを言っています。祭司アロンが髭に滴るほど恵の油が注がれている風景を表現しています。80歳のお爺さんの頭にたっぷりの油が注がれる絵のどこが素晴らしいのだ?と、言わないでください(笑)。注がれる油はその辺の油ではなく尊い油であり、司祭にとっては特別なものなのです。その特別な油をちょこっとではなく、たっぷりと滴り落ちるほど注がれているのです!そして3節では高いヘルモン山の露が、それよりも少し低いシオンの山に流れ下る時のようだと言っています。これも美しい光景なのでしょう。どちらの例もとても美しい光景であり、人間同士が愛し合い助け合う光景は、それと同じぐらいに美しいのだと歌っているのです。」(画像:knowliveshare.comより)

「今日もこうして教会に一緒に集まり、共に祈り、賛美している光景はとても美しいものです。みなさん、とても快適だと思います。なぜ快適なのでしょうか?それは、この時が愛を持って流れているからです。とても気分が良くなった、良い日曜日だったと礼拝が終わった時にみなさん言います。しかし、また来週この教会にどれだけの人が来るでしょうか?きっと来週のこの時間は、同じメンバーではないはずです。それはなぜでしょうか?」

「新約聖書Luke(ルカ)の6章38節には何と書いてありますか?”与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう”と書いてありますね。多くの人は与えたり、与えられたりするものがお金や物だけだと勘違いしています。」

nn20140101a1d-870x489日本では神社に行ってお賽銭を入れますよね?私も子どものころ、願い事があるときは10円ではなく、100円入れてお願いしたものです。願いが叶わないと「いつもの10倍入れたのに、神様は聞いてくれなかった!」などと怒っていたこともあります。神様にとっては10円も100円も関係ないでしょう。祈るという行為は神と人間が唯一交信できる手段なのです。普段は祈らないのに、自分の都合の良い時だけ、お金を投げて願い事をかなえてもらおうとした行為は、全く筋違いだったと今では苦笑してしまいます。(画像:www.japantimes.co.jpより)

ブラウン牧師は、Lukeの6章27~37節を読むように言いました。敵を愛せ・・という聖書で有名な箇所です。

6:27しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。 6:28のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。 6:29あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。 6:30あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。 6:31人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。 6:32自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。 6:33自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。 6:34また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。 6:35しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。 6:36あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。 6:37人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

download「敵を愛すことなどできるものか!と、反論する人が沢山いることでしょう。しかし、憎しみというものは比較的、誤解から生まれることも多いことを皆さんに知って欲しいのです。私もこんな経験があります。ある人と私は3年前に出会いました。私は、ある日その方が私のことを嫌っていることを知りました。原因に全く心当たりはありませんでした。よくよく話を聞いてみると、3年前に会ったときの私の対応が、その方にとても不愉快なものであったことがわかりました。今では誤解が解け、その方とはとても仲良くしていますが、何と私は3年間もその方に憎まれていたわけです!そのように人は相手が自分を正しく扱わなかったとき、憎しみを持ちます。そして、そのままコミュニケーションがないままでいると、誤解を生じたまま、憎まなくても良い人を憎んでいることがあります。だとすれば、人間が互いに赦す方法、赦される方法を見出す努力をすれば、憎むべき相手はいなくなるでしょう。私たちは互いにもっとコミュニケーションを取るべきなのです!」(画像:andyburkhardt.comより)

「新約聖書Titus (テトス)1章10節~13節を見て下さい。空論を唱え、人を惑わすものが多くいて、不正な利益を得る方法を教えている・・と書いてあります。あなた方も惑わされてはいけません。そして新約聖書Luke(ルカ)6章46節を見てください。”わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。”と言っています。人は、自分勝手な判断をし、間違った方向へ進みます。神様ならば、どのような判断を下すであろうか?と常に考えてみてください。あなたは、神様の基準で判断すると何点ぐらいをもらえそうですか?今の政治家たちは、神の基準で判断すると何点ぐらいもらえそうですか?そう考えると、いかに人の基準がいい加減なものであるか、わかるでしょう?」

詩編は旧約聖書にあるページです。イエスが生まれる前のお話です。イエスが残した新約聖書では、このようなことが書かれています。1Peter(ペテロ第一)3章8節 ”あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。” 私たちは常に自己反省し、訂正すれば良いのです。James(ヤコブ)1章19節 ”人の話を素早く聞き、自分はゆっくりと口を開き、怒るにおそくあるべきである。”、Romans(ローマ人への手紙)12章18節 ”あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。”」

friend-or-enemy残念ながら友達だと言いながら、敵になっていく人が沢山います。人間は嘘をつくからです。しかし、神は嘘をつきません。神は人間の友達でいようとしていますが、私達人間が神の友達になることを拒んでいるのです。天の神は私たちに多くの恵みを与えようとしています。しかし、人間が神の言葉を聞こうとしていないのです。神の言葉を聞き入れ、行動に起こしていけば、美しい人間関係が築けるのです。イエスが十字架にかかったときに彼は何と言いましたか?こいつらを全員、焼き殺してくれ!と神に頼みましたか?」(画像:www.binaryoptionsthatsuck.comより)

礼拝の最後にブラウン牧師は、参加者全員に2枚のカードを配りました。1つのカードには神に祈りたい問題を書いてもらいました。2つめのカードには神に誓いたい約束を書いてもらいました。その2枚のカードをすべて回収し、教会の外ですべて燃やしました。燃やしたカードは天に上っていきました。

しかし、こんなことをしなくても皆さんの祈りはちゃんと神様に届いているのです。神様のメッセージに耳を傾けてください。あなたが神様から離れなければ、すべての問題は解決されるのです。

2015年7月5日の礼拝より

文:打木希瑶子